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シンポジウム「応仁の乱後の『上町下町(かみのまちしものまち)』」

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令和元年5月11日、上京区総合庁舎4階にて、シンポジウム「応仁の乱後の『上町下町』」が開催されました。改元の直後、なにかしらとても晴れやかな雰囲気が感じられる会場は、お話を聞きに来られた区民の方々で満員になりました。



門川京都市長、応仁の乱 東陣プロジェクト実行委員会の細尾会長のご挨拶のあと、まず最初に公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の山本雅和氏による基調講演「応仁の乱後の京都―上京・下京のくらしと文化―」が始まりました。


時代は応仁の乱、そしてそのあとの戦国時代・安土桃山時代あたりのお話です。平安京創建以来、数百年は本格的な市街戦がなかった京都ですが、応仁の乱からのこの時代は戦乱が続き、本能寺の変まで何度も町が焼け落ちることとなります。

応仁の乱後、京の人々は、自分たちの命と財産は自分たちの力で守ろうと、今の上京区の区域である「上京」と中京区・下京区の区域「下京」に集まりました。そして堀と土塁を巡らした「惣構(そうがまえ)」という「城壁」の中に住むようになりました。

応仁の乱では、一般的には京の町がすべて焼けたと言われています。確かに京の北部、上京あたりは全部焼けてしまったのですが、南部の下京近辺は一部だけで全焼は免れていたのです。そのおかげで、上京は下京の支援を受けて迅速な復興を遂げることができました。

そういった京の人々を、以後も「天文法華の乱」、織田信長による「上京焼き討ち」そして「本能寺の変」という戦乱が襲います。しかし特筆すべきことは、幸いなことにそれらの戦乱により、上京下京両方が一度に燃えたことがなかったということでした。天文法華の乱では、下京に集まっていた日蓮宗の寺院や信徒が襲われて、下京全体が燃えましたが、上京の被害は少なかったようで、このときは上京が下京を支援することになります。そして織田信長による上京の焼き討ちの際には、下京が上京に手を差し伸べたのです。

基調講演では、国宝の「上杉本」をはじめ、戦国時代の「洛中洛外図」が紹介されました。そこには、内裏や公家の邸宅のほか、その時代にすでにあった寺院を見つけることができました。「歴博甲本(町田本)」には小川通にあったお風呂まで描かれ、当時の人々の生活が生き生きと描かれています。

小川通が上京の中心的な繁華街であったことは驚きでしたが、そこには今は中京区にある革堂(行願寺)があり、上京で大事があるとここの鐘が撞かれ、人々が集まり相談をしたとのことでした。上京には、ここに自治の象徴があったのです。


▲現在の革堂(行願寺)の鐘楼

資料の図からは、下京には公家が少なく商人が多いことがわかりました。上京の革堂に対して下京の自治の象徴はどこかというと、それは六角堂(頂法寺)でした。ここにも鐘があり、同じように何かあれば六角堂の鐘が撞かれたのです。


▲下京の有事には撞かれたという六角堂の鐘。

山本さんは埋蔵文化財の研究成果から、京都文化と考古学についてもお話されました。戦国時代の出土品には、まだ侘茶ではない豪華なお茶の楽しみを感じさせる青磁や天目茶碗があるそうです。また、庶民もお茶をたしなんでいたことや、金属はリサイクルされていたことから出土が少ないということなどが興味深い内容でした。地方でも京都風の庭園が発掘されることから、文化が京都から地方へ広がっていたことがわかるそうです。このように、上京と下京は手を結び力を蓄えて、全国への文化の発信地となっていったのでした。


▲出土した天目茶碗の数々に目を奪われます。

その後、上京代表として昔の革堂近くにお住いの武者小路千家家元・千宗守さん、下京代表として六角堂・華道家元池坊 池坊時期家元・池坊専好さんとコーディネーターとして同志社女子大学・山田邦和教授の3名で対談がありました。


▲楽しいお話がとんとんと進んでいきます。

小川一条あたりにあった「革堂」という言葉の響きをとても懐かしく思われる千宗守さんですが、この400年間は「焼けては戻り」を繰り返した、とおっしゃっています。「小川」という漢字は、今は「おがわ」と読むが、昔は「こかわ」と固有名詞として読まれたそうです。焼けても戻って来られたのは、小川通が上京のメインストリートだったからだけではなく、「こかわ」を同じ水源とする水がとても良質だったからということでした。都が移るとき、武者小路千家さんも東京への誘いがあったそうです。しかし「それでも京都にとどまったのはこの水があったからなのです。」ときっぱりとおっしゃったのが、とても心に残りました。


ここで山田教授が、これは聞いてみたかったという質問を。「お寺ではもし火事があれば本尊を一番に持って逃げるが、お茶人さんは何を持って逃げますか?」


千宗守さんの答えは「炉に使う灰」でした!粒子の細かい灰は10年20年ではできないそうです。実際お宅には400年前の灰が2鉢保存されているとのこと。

「灰無しではプロの茶人にはなれない」。お茶人の誇りを垣間見た瞬間でした。

一方、六角堂ゆかりの池坊専好さんによると、六角堂は20回近く焼けているとのことでした。平安時代以来焼けても焼けても移転せずここに再建されたのは、いかに庶民の信仰が篤かったかという証であったと思われます。京都の真ん中であることを示す「へそ石」があるように、ここは情報交換の場であり、自分の家より六角堂を守ったという町衆の熱意を感じる場所であったのでしょう。


▲町の真ん中を示すという六角堂の「へそ石」。

ここで山田教授より「六角堂は最初は六角形ではなかったか?」という疑問が投げかけられました。池坊さんは「六角堂は平安時代にはすでに六角形ではなかった。1708年に本堂を六角で作ることを願い出て初めて六角形になったのだが、厨子は初めから六角だったかもしれない。」と答えられました。どちらにせよ、日本では珍しい六角形の建築物がなぜ建てられたか、という謎解きをとても興味深く聞かせていただきました。

最後に、上京代表の千宗守さんと下京代表の池坊専好さんに上京と下京のイメージを尋ねられました。千宗守さんの下京のイメージは「活力的」そして「お金持ち」。活気のある町であるということですね。一方、池坊さんの下京のイメージは「にぎやか」「ビジネス街である」とのこと。たくさんのビルの中に囲まれている六角堂の存在が、外からは不思議なものに見られるとおっしゃいます。 そして千宗守さんの上京のイメージというと「御所があり、寺院があり、静か… そして見栄っ張り?!」
おそらくほとんどが上京区民である聴衆の方々の苦笑が聞こえました!


▲千宗守さんのお話で笑いの連続の会場!

最後に池坊さんの上京のイメージは…「『シュッ』としてはるイメージ…!」。この「シュッと!」を聞いた途端、会場は大爆笑!みなさんにおわかりいただけるでしょうか?!この「シュッと」の中には、「良くも悪くも」背筋をピンと伸ばした上京のイメージが込められています。上京を表すのに言葉では難しいところでしたが、池坊さんの見事な表現に触れ、上京に住む人たちはその一言ですべてを察したのでした。


上京と下京。競い合い発展してきたこの2つの町は、今は3つに分かれていますが、イメージとしてはいまだに2つであると実感しています。競い合いながら、しかしどちらかが衰退しそうになると片方が支えて復興させる。そうやって京都は発展してきたのだなと、再認識した今日の講演と対談でした。

「シュッとしてはる!」…あなたは分かりますか?!

<追記>
シンポジウムの後会場では、安土桃山時代を生きた初代池坊専好を描く「花戦さ」の映画が上映されました。

レポーター

鳴橋 明美(なるはしあけみ)

上京区西陣に生まれ育ってウン十年。本業は、上京区にある「鳴橋庵(めいきょうあん)」での「京くみひも」の仕事です。
カミングから派生した「能舞台フェスタ in 今宮御旅所」を毎年5月に開催、また、京都上京KOTO-継の会を立ち上げ、上京区の暮らしの文化を伝えています。RADIO MIX KYOTOでのお話やブログの発信をしたり、伝統産業体験を子どもたちにしてもらうなど、次世代への文化継承に力を入れています。

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